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2014年8月 1日 (金)

我が国の憲法は今のままでよいのでしょうか?

安部総理は憲法の解釈を変更して集団的自衛権の行使容認を取り付けましたが、そんなことで本当によいのでしょうか?

我が国の憲法は、戦勝国米国のGHQによって作られたと言っても過言では無いと云われています。

時の総理大臣吉田茂が国民を納得させるために一応有識者で議論を重ね策定したことになっていますが、原案はほとんどGHQによって修正されたものです。

「三橋経済新聞」に佐藤健志氏(評論家・作家)が投稿したメルマガで最近知ったのですが、米国が大英帝国の植民地であったときの憲法が、当に我が国の憲法とそっくりの内容だったそうです。

【以下流用】 少々長いですが

戦後日本は、「自国のあり方をアメリカのようにしてゆく」ことを国家目標と位置づけてきたからです。

むろんこれは、「アメリカのように豊かになりたい」ということでもある。

第二次大戦終結直後、同国の豊かさは世界的に見てもずば抜けていましたから。

しかし、それだけではありません。

「なんと、敵だったはずのアメリカと心情的に一体化することで、敗戦の衝撃や屈辱感を抑圧・封印した。それによって(戦争に負けたことがもたらした)アイデンティティの危機を回避しようとしたのです」

つまりは敗戦後、新たな心のよりどころを求めた日本人の都合と、アメリカの世界戦略上の都合が一致した結果、

「アメリカの奨励のもと、日本が同国との政治的・経済的・心情的な一体化を推し進める」という図式が成立したのです。

戦争の勝者と敗者が、ここまでうるわしく結びついた例も珍しいでしょう。

とはいえ、うるわしい話には裏があると決まっています。

「もともと、戦争に勝ったアメリカは、日本を二度とアメリカに挑戦することのできない不能な国にしたまま、封じ込めるつもりでいたのです」戦後日本が豊かになったことは、これを否定するものではありません。

安全保障面でアメリカに依存しているかぎり、いくら繁栄しようと、アメリカの意に反する行動は(結局のところ)取れないからです。

おまけに日本は日本で、敗戦の経験がよほどキツかったのか、平和国家だの不戦の誓いだのといったスローガンを信奉、「安全保障を自主的に追求するのはコリゴリ」という風潮が強かった。

安全保障面でアメリカに依存する、ないし(戦争)不能な国のまま封じ込められることは、多くの日本人にとり、屈辱的どころか、望ましいこととして受け止められたのです。

アメリカと心情的に一体化しているのですから、いくら依存したり、封じ込められたりしようと、問題と思わないのも分かる話。

「アメリカ=日本」なんですからね。

こうして戦後日本は「アメリカの庇護のもとで平和と繁栄を享受するかわり、同国の意向には逆らえない国」となりました。

ところが、であります。

アメリカ独立戦争の起爆剤となった大ベストセラー『コモン・センス』の著者トマス・ペインが、同書で述べるところによれば、植民地時代のアメリカも、宗主国イギリスにたいして、よく似た態度を取っていた。

イギリスを素晴らしい国と信じ、安全保障についてもイギリスに依存し、同国の庇護のもとで平和と繁栄を享受するかわり、同国の意向には逆らえない存在だったのです。

裏を返せばアメリカは、戦後日本さながらの状態にあったにもかかわらず、自分の力で独立を勝ち取ったことになる。

そして世界的な大国への道を歩み始めるのですね。

日本の今後を考えるうえで希望を抱かせる話ですが、ここで考えてみたい点があります。

植民地時代のアメリカが、戦後日本とよく似ていたとすれば、憲法九条、ないし九条に象徴される極端な平和主義(または非武装主義)が、当時のアメリカに存在した可能性もあるのではないか?

じつは、そうなのです!

クエーカーはキリスト教の一派ですが、「いかなる理由があろうと、武器を取ることは罪である」という立場を取っていました(今でも取っています。念のため)。

ゆえに「いかにイギリスに不満があろうと、戦争に訴えて独立をめざすなど許されない」と、戦後日本の左翼的平和主義者とそっくりではありませんか(笑)。

これにたいしペインは、猛然と反論します。

イギリスが武力でわれわれを制圧しようとしていることはどうなるのだ?

向こうの行動は罪ではないのか?

だいたい「いかなる理由があろうと、武器を取ることは罪である」などと言い出したら、暴力的な攻撃にたいする抵抗は不可能になる。

クエーカーの教義は、「長いものには巻かれろ」という卑屈な追従を正当化することで、人間を権力のイヌに仕立て上げるものだ!

しかしポイントは、憲法九条とそっくりの発想が、1776年の新大陸に存在しており、アメリカ人はそれを否定する形で独立戦争に突入したこと。

わが国の保守も左翼も、ここをちゃんと押さえているでしょうか?

前者は九条について「日本を骨抜きにするための条項」と見なし、

後者は「世界に冠たる平和の条項」と見なしていますが、

どちらの評価にも、このような発想は、戦後日本にのみ見られる特別なものという含みがあります。

というわけで、みなさんにはぜひ、わが新刊『コモン・センス完全版』をお読みいただきたいと思います。

わが国のインテリは、憲法九条(的な発想)もまた、良かれ悪しかれアメリカの歴史に根ざしたものであることに、ずっと直面できずにいたのでした。

by=小井土 靖

PS 次回から荻野新社長にバトンタッチして、私は不定期とさせていただきます

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